山本幸俊さんを偲んで

 

◆山本さんと初めてお会いしたのは、平成15年(2003)春の守門村での調査でしたね。東洋大学での恩師が、山本さんの先輩であったことが、越佐歴史資料調査会へ参加するきっかけでした。調査二日目の朝食時に、山本さんから「戊辰戦争での清崎藩(糸魚川藩)の動向はどうだったのかな?調べてみないの?」と言われたことを思い出します。卒業論文を書いたばかりの初心の力説を、優しくにこやかな笑顔で受け止めていただきました。その直後に山本さんが糸魚川出身であることを知り、赤面したことを鮮明に覚えています。その後、さまざまな縁が重なって上越市に来ることになりましたが、その縁のはじまりは越佐歴史資料調査会であり、山本さんでした。折にふれて賜った温かいお言葉の一つ一つを大切にします。本当は…、もっと色々な事を語り合いたかったです。そして、ご教示を賜りたいことが沢山ありました。山本さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。

荒川 将

 

◆山本さんの訃報に接しとても残念でなりません。心からご冥福をお祈りいたします。
私が平成13年夏の調査会で初めて山本さんとお会いしてから、11年が経過しました。その間、自らは古文書初心者の学生から、大学院生、そして就職し世話人へと立ち位置が変わりました。
そういった観点から振り返ってみると、調査の場での山本さんは、学生・研究者・地元の方々といった様々な立場の人々に分け隔てなく接していたという印象が強く残っています。個人的には、古文書の読み方、研究、進路等について助言をいただきました。また、調査中は地元の方々と地域の特色を他の地域と比較しつつ話す姿がありました。わずかな紙幅では到底表現しきれませんが、山本さんは、市民参加で幅広い参加者がいる本調査会の象徴的存在であったと思います。
本当にお世話になりました。これからも、遠くではありますが越佐歴史資料調査会を見守っていただければと思います。

笠井 希予志

 

◆私と故山本幸俊先生との出会いは、今から四半世紀も前だが、新潟史学会で報告者としてご一緒させてもらった時に遡る。その時、先生は、近世初期の越後の山論についての報告をされた。その後、私が高校教員となった時、先生は、県立文書館に、本田雄二先生とともにおられた。私もご縁があって、地区の史料調査員となったが、先生方の斬新な資料調査・保存などに対する考え方に感銘を受けたことを、今も覚えている。その後、またお誘いいただいて、私も「越佐」の世話人の末席に名を連ねることとなった。先生との会話で、最後に印象に残っているのは、「越後佐渡の百姓一揆研究を改めてまとめる作業が必要ですね。」ということばである。先生は、公私ともに大変お忙しい中、無理をされながら、「越佐」の事務局長を勤められた。「忙しい」と言ってなかなか協力できなかった私としては、申し訳ない気持ちで一杯である。今はただご冥福をお祈りするばかりである。

加藤 健児

 

◆山本さんの遺志を継ぐ
花に囲まれて眠るように横たわる山本さんとの最後のお別れは、言葉に言い表せないほど辛いものでした。
平成九年の「越佐歴史資料調査会」の立ち上げから現在に至るまでの山本さんの活動や、「会」に対する思いはいまさら述べるまでもありません。歴史資料の保存と活用については、県内はもとより全国的にも知られていた人でしたが、彼は単なる理論家ではなく、文書館等の行政畑でもその実践に取り組んだことはご存じの通りです。「越佐」の活動もその一環であり、そして他から縛りのないこの会こそが彼が本来目指していた実践活動の場であったのではないかと思います。
試行錯誤を繰り返しながらも「越佐歴史資料調査会」の活動を継続していくことこそが、山本さんの遺志に応える道であると今確信しています。

杉本 耕一

 

◆山本さんと知り合ったのは、県立文書館勤務がきっかけである。新潟県歴史資料保存活用連絡協議会(新史料協)の事務局に携わることになり、山本さんは新史料協の理事だった。私が文書館に勤務していた頃、「平成の市町村合併」の中で市町村公文書の保存をどうするか、が懸案とされる一方で、三条・見附の水害、中越地震と災害時における地域文書の保存も問題となった。山本さんは、これらの問題に熱心に取り組み、歴史資料の保存についてほとんど知識らしい知識や経験を持たない私にとって、その指針を常に示してくれた大きな存在であった。その縁で文書館を離れた後、越佐歴史資料調査会の世話人に名を連ねることになったが、文書館とは違った形で歴史資料保存に関わる調査会の活動でも、やはり山本さんは私にとって活動の指針を示してくれる存在であった。一挙手一投足に学ぶことが多かった方であるが故に、早すぎるお別れは残念でならない。

中川 浩宣

 

◆悲しすぎる早すぎる別れ~地域と歩んだ史料保存活動者・山本幸俊氏
山本幸俊さん,偉大なる地方史研究者でした。大きな目標でした。「歴史研究者は地域とどのように向き合うべきか」~越佐歴史資料調査会は,山本さんのコンセプトに共感して始まりました。我々は,山本さんの地域の人々の中に入り込んで歴史資料の魅力を伝え,共に楽しむ「魔術」に魅せられました。「越佐」の調査は楽しみでしたが,それは山本さんと一緒に調査し,議論できる喜びでした。
私たちは,「地域と歩む史料保存」を体現し,最後まで次のように地域史に対する愛を述べた山本さんの遺志を受け継ぎ、新たな「越佐」の活動を進めていきたいと思います。

遺された歴史資料により,地域の歩みをより深くリアルに知ることができれば,地域の置かれてきた現状や個性の発見となり,住民が共有する新しい絆を確認できる。地域史により住民自身の足元が照らし出されることにより,そこを生活拠点とする自分自身を発見することになる。その主体形成に,たとえ「よそ者」であっても,歴史研究者は正しい歴史認識と歴史資料をもって,キーマンの一人として関わることができるはず~歴史研究者は市民や地域との協働・連携に一歩踏み出そう。 (全史料協関東部会会報『アーキビスト』№77 2012年3月より)

山本さん、安らかに。合掌。

長谷川 伸

 

◆山本さんの背中を追って
山本幸俊さんとは、編さん室で8年もの間、隣の机に座らせていただいた。越佐資料調査会でも16年の間、山本さんの後をついてきた。地域と史料のことを教えていただいたのは、山本さんからである。仕事のなかで、人に対して声を荒げるようなところは見たことがなく、いつも笑って調整役にまわっている。山本さんは、いつも目の前のどたばたより先の方を見ていて、それが安心に感じられた。舵取りは、山本さんに任せておけばよいと。職場が変わって、山本さんと離れても、やはり山本さんの顔を見ると安心していたように思う。
振り返れば、ずっと、山本さんには甘えさせてもらってきたのだと、いまさら気が付いた。今、出会ったころの山本さんの年齢になった私たちが、後ろから来る人たちのために道を拓いていかなければならないと思う。山本さんがそうしていたように。
あらためて山本幸俊さんにお礼とお別れを。本当にお世話になりました。そして安らかに。

花岡 公貴

 

◆県外から新潟にやってきて、山本さんに出会ったとき、新潟にはすごい人が居るな、と思いました。それだけで新潟に来て良かった、と思ったほどです。研究についても史料保存の運動についても、全国的な動向に目配りをしながら、他方でしっかり地域に足をつけた活動を目指し、常にそれを語り、実践していた山本さん。とりわけ地域の歴史愛好家や史料所蔵者との交流を大事にして、楽しそうに地元の人達と語りながら古文書を読んでいたその姿は、とても印象的で、いまでもありありと目に浮かびます。私たちは、いや少なくとも私は、いつも山本さんに引きずられ、励まされながらよたよたとそのあとをついて歩いていたにすぎませんでした。山本さんが亡くなり、失ったものの大きさに、ただ呆然とするばかりです。山本さんのようにはとてもなれない、と思いながら、それでもなお、これからもずっと、「こんな時山本さんならどうしただろうか」、と考え続けていくことが、自分に課せられた課題のように思っています。心からご冥福をお祈りします。

原 直史

 

◆山本幸俊さんありがとうございました
生真面目な世話人と山本さんとのやり取りを、いつも微笑ましく拝見させていただいていました。山本さんは「調和」と「前進」を大切にされる方だったと思います。そして、常に多方面に幅広い関心をもって「実践」される方でした。私が学んできた「考古学」に関心を示していただいたり、趣味で仲間とはじめた山城歩きを書き綴った「たより」を熱心に読んでくださったりしていただいたことは、私にとって大きな励みとなってきました。「一人一人の力を合わせて何事かを成し遂げる」という、本会の目的の一つを追求していくために、山本さんと共に歩んできたことを思い出しながら、これからも楽しく本会の活動に参加していきたいと思います。山本さん、がんばります!。

広井 造

 

◆山本さんのこと
私が寺泊高校にいた頃、生徒に山本さんの話をしたことがあった。すると、生徒の瞳が輝き、言葉がはじけた。「今の私たちがあるのは、山本先生のおかげだ」。それほど子どもたちから慕われた山本さんであった。山本さんが寺泊の本山小学校で教えた生徒を、今度は私が高校で教えることになった。山本さんとは、その後創立時の県立文書館で同僚となった。山本さんは、調査員制度を作り上げるなど、文書館の資料保存活動に尽力した。1997年に、山本さんを事務局として越佐歴史資料調査会が立ち上がった。調査会のスタイルともなっているのが、地元の皆さんとのふれあいである。その生みの親が山本さんであった。山本さんの真骨頂は、地元の皆さんとの気さくな対応であり、肩肘張らない自然体の形は、天性のものであった。調査時はもとより、お茶の時間なども地域の歴史や風習などを熱心に聞き取っていた。笑みを絶やさないその姿は、永遠に私の脳裏に刻まれ、消えることはない。

本田 雄二

 

◆山本幸俊さんを偲んで
私が山本さんに最初にお会いしたのは、新潟県立歴史博物館準備室に勤務した1995年頃だったと思う。その頃、山本さんは新潟県立文書館に勤務しておられ、調査にうかがうと若輩の私にも親身になって対応してくださった。また、元禄年間の上越市吉川区の村絵図群などを例に、近世村落史研究の魅力を静かに熱く語っておられたのを記憶している。
その後、越佐歴史資料調査会世話人に加えていただき、ご一緒する機会が増えた。安塚や守門の調査での山本さんの姿が今でも鮮明に思い出される。私が山本さんに感じていた最大の魅力は、資料所蔵者や調査会に参加される地域住民への配慮・コミュニケーションを最優先され、調査会の休憩時間や報告会では調査資料の持つ意義や資料保存の大切さを地域住民の目線で、誰よりも親しみやすく、わかりやすく、飾らずにお話される点にあった。これはまさに越佐歴史資料調査会の理念である。当会で山本さんが果たされた役割の大きさと、山本さんを失った悲しみを改めて痛感している。心よりご冥福をお祈りします。

渡部 浩二

―2012年8月、越佐歴史資料調査会会報より―